2年前の姉川の戦い(1570年)で織田・徳川連合軍に敗れた浅井長政と、その同盟相手だった朝倉義景は、その後3年間にわたり信長への抵抗を続けた。長政の本拠は近江国(現在の滋賀県長浜市)にある小谷城(おだにじょう)。標高約495mの小谷山に築かれた、戦国期屈指の「山城(やまじろ)」であった。
長政は元々、信長の妹お市の方を正室に迎え、信長との同盟関係にあった。しかし1570年、信長が朝倉義景を攻めたことを受け、長政は「越前朝倉家との古い同盟(祖父の代から)の義理」を選び、信長を裏切った。これが姉川の戦いにつながり、結果として浅井家滅亡への引き金となる。
🎨 1573年9月1日・小谷落城の情景(イメージ図)
1573年8月、信長は浅井・朝倉同盟の「弱い環」であった朝倉義景を先に攻め、義景を越前一乗谷で滅ぼす(朝倉氏の滅亡)。続けて信長軍3万は小谷城を包囲。9月1日、長政は妻お市の方と娘たち(茶々・初・江の3姉妹)を信長のもとに送り出した後、本丸で自害(享年29)。父・久政(くまさ)も自害し、戦国大名としての浅井家は滅亡した。
羽柴(豊臣)秀吉は今回の戦いで大きな戦功を挙げ、旧浅井領(近江国北部・約12万石)を与えられて初めての城持ち大名となり、長浜城を築いた。これが秀吉の「天下取りの始まり」とされる。同じ1573年には、信長が将軍足利義昭を京都から追放(室町幕府の事実上の滅亡)もあり、「中世から近世への転換点」として中学入試で頻出の年となる。