大河ドラマ「逆賊の幕臣」連動シリーズ
小栗忠順 出世絵巻
名門旗本の子から、日本の近代化をつくった幕臣へ。「逆賊」と呼ばれながらも、横須賀に造船所をきずき、たくさんの“近代のタネ”をまいた小栗忠順(小栗上野介)の一生を、七つの場面でたどります。各場面に「行ってみよう」スポット付き。地図のマスをタップすると、その場面へジャンプします。
スクールコンパス編集部オリジナル・イラスト(実際の肖像ではありません)
▼ 忠順の出世のものさし(タップで各場面へ)
はじめに ── 小栗さんって、だれ?
豊臣秀吉や徳川家康とちがって、小栗忠順の名前は教科書にほとんど出てきません。「知らなくて当然」です。でも実は、キミの身のまわりには、小栗さんが150年ほど前にまいた“近代のタネ”がいくつもかくれています。
横須賀に、今もアメリカ海軍が船を直す巨大な“ドック”があります。その大もとをつくったのが小栗さんです。
「株式会社」=みんなでお金を出し合って大きな仕事をする会社のしくみ。日本で最初につくったのも小栗さんでした。
のちに日本の海軍が世界の強い国に勝てたのも「小栗さんの造船所のおかげ」と、海軍の英雄が感謝しました。
それなのに、なぜ小栗さんは「逆賊(=国にそむいた悪者)」と呼ばれ、長いあいだ忘れられていたのでしょう? まずは七つの場面で、その一生をたどってみましょう。
江戸・神田駿河台
なにがあったの?
1827年、江戸の神田駿河台(今の東京都千代田区)で、2500石の名門旗本の子として生まれました。旗本とは、将軍に直せつ仕える、格の高い武士のことです。
今でいうと、どんな家?
代々「又一」という名を受けつぐ、由緒ある家。幼いころから勉強がよくでき、まわりが驚くほどの“天才はだ”だったと伝わります。
のちに日本の近代化をつくる人の、はじまりの場所。
2027年は、ちょうど忠順の生まれてから200年めにあたります。
写真:Googleマップ実写真:神田駿河台(生誕の地)(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 住 所
- 東京都千代田区神田駿河台1-8
- アクセス
- JR・地下鉄「御茶ノ水」駅から徒歩すぐ
- 見どころ
- 道ばたに「小栗上野介、ここに生まれる」と記した案内板
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
江戸
なにがあったの?
若くして幕府の役人(幕臣)になった忠順は、するどい頭と、無駄な仕事をきらう性格で知られました。1853年にペリーの黒船が来ると、海の守りや外国との交渉の最前線に立ちます。
忠順は、なにをした?
正しいと思えば、えらい上司にも遠慮なく意見を言いました。「辞めてはまた呼び戻されること70回」という伝説が残るほど。お花見に行っても花より治水(川の工事)の話ばかり、という“オタク”ぶりも伝わります。
相手がだれでも、国のために本当のことを言える人。
この“まっすぐさ”が、のちに大きな仕事と、きびしい運命の両方を運んできます。
写真:Googleマップ実写真:江戸城あと(皇居東御苑)(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 東京都千代田区千代田
- アクセス
- 地下鉄「大手町」駅などから徒歩
- 見どころ
- 将軍の城だった巨大な石垣とお堀。幕臣たちが働いた場所
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
遣米使節
なにがあったの?
1860年、日米修好通商条約という大切な約束の書類を交換するため、忠順は遣米使節の一人として軍艦ポーハタン号でアメリカへ渡りました。そのまま地球を一周して帰ってきます。
忠順は、なにをした?
ワシントンで大統領に会い、お金の交換比率をめぐって半月もねばり強く交渉し、現地の新聞にもほめられました。海軍の工場で巨大な機械「スチームハンマー」を見て日本との差におどろき、記念に工場の「ネジ」を一本、日本へ持ち帰りました。
たった一本のネジは、「日本も自分たちで工業の国になる」という決意のしるし。
このときの体験が、のちの横須賀の造船所につながります。
写真:Googleマップ実写真:横浜・象の鼻パーク(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 神奈川県横浜市中区海岸通
- アクセス
- みなとみらい線「日本大通り」駅から徒歩
- 見どころ
- 日本が世界へ開かれた港。使節たちが海を渡った時代の玄関口
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
横須賀
なにがあったの?
1865年、忠順はフランス人技師ヴェルニーの力を借りて、横須賀に大きな造船所(横須賀製鉄所)をつくりはじめました。船をつくり、直し、鉄をきたえ、技術の学校まで備えた、日本で初めての本格的な近代工場です。
まわりは反対。それでも?
建設費は240万ドルもの大金。「お金がない」と幕府の中は大反対でしたが、忠順は有名な言葉でおし切りました。
「たとえ幕府が家を手放すことになっても、土蔵つきの売家(りっぱな蔵つきの家)のほうがいい」――つまり、幕府が終わっても、この造船所は日本の財産として残る、という考えでした。
「自分たちの代では完成を見られなくても、国のために残す」。
これこそ、日本の近代化の“いしずえ”をすえた仕事でした。
写真:Googleマップ実写真:横須賀・ヴェルニー公園(小栗の胸像がある)(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 住 所
- 神奈川県横須賀市汐入町1-1
- アクセス
- JR「横須賀」駅からすぐ
- 見どころ
- 小栗とヴェルニーの胸像、軍港を見わたすバラ園
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
お金・軍・会社
なにがあったの?
横須賀だけではありません。忠順は、お金に明るい武士として、苦しい幕府の財政を立て直すため、勘定奉行(お金の責任者)を何度もつとめました。
忠順は、なにをした?
フランス式の新しい軍隊づくり(軍制改革)を進め、日本で初めての株式会社といわれる「兵庫商社」もつくりました。造船所には、月給制や仕事の分担など、今の会社のしくみのもとになる考えも取り入れました。
お金・軍・会社・工場……。
今の日本につながる“近代のしくみ”を、幕末のうちに次々とまいた人でした。
写真:Googleマップ実写真:ヴェルニー記念館(スチームハンマー展示)(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 神奈川県横須賀市東逸見町(ヴェルニー公園内)
- 入館
- 無料
- 見どころ
- 製鉄所で実際に使われた巨大な「スチームハンマー」の本物
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
上州・権田村
なにがあったの?
1867年、将軍が政治を朝廷に返す「大政奉還」で、江戸幕府は終わりに向かいます。忠順は最後まで戦うべきだと主張しましたが、将軍・徳川慶喜にしりぞけられ、役を解かれてしまいます。
忠順は、どうした?
自分の領地だった上州・権田村(今の群馬県高崎市倉渕町権田)へ移り住みました。アメリカで学んだ測量の技術で用水路を整えるなど、村人のために力をつくし、慕われました。
役職を失っても、目の前の人のために働く。
権田で整えた用水路は、今も地元で使われています。
写真:Googleマップ実写真:東善寺(小栗のお墓がある菩提寺)(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 住 所
- 群馬県高崎市倉渕町権田169
- アクセス
- 高崎駅からバス・車
- 見どころ
- 小栗のお墓と記念の展示。東郷平八郎が遺族に贈った書も
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
倉渕・水沼
なにがあったの?
1868年、新政府軍は権田にいた忠順をとらえました。そして「反逆の意図が明らか」という根拠のない理由で、きちんとした取り調べ(裁判)もないまま、無実の罪で命をうばわれます。数え年で42さいでした。
その無念さは?
悲願だった横須賀の第1号ドック(船を直す大きな設備)の完成を、忠順は見ることができませんでした。のちに地元の人びとは、「罪なくして命をうばわれた偉人」をしのぶ碑を建てました。
「逆賊」とされ、長いあいだ教科書からも消えていました。
でも、忠順がまいた“近代のタネ”は、このあと大きく実っていきます。
写真:Googleマップ実写真:小栗上野介終焉の地(慰霊碑)(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 群馬県高崎市倉渕町水沼(烏川のほとり)
- 見どころ
- 田んぼの一角に静かに建つ慰霊碑。毎年「小栗まつり」も開かれます
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
忠順の死後
忠順が亡くなったあと、まいた“近代のタネ”はどうなったのでしょう。ここは絵巻の「むすびの物語」です。
- 1871年 横須賀の第1号ドックが完成(忠順の死から3年後)。造船所は明治政府に引きつがれます。
- 明治のころ 横須賀は日本海軍を支える中心の工場へと育ちました。
- 1912年 東郷平八郎が遺族に「日本海海戦に勝てたのは、小栗さんの造船所のおかげ」と礼を述べました。
- 今 大隈重信は「明治の近代化の多くは小栗のまね」、作家・司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と呼びました。
「幕府の運命に限りはあっても、日本の運命には限りがない」。
忠順の言葉のとおり、まいた種は時代をこえて実りました。
写真:Googleマップ実写真:記念艦三笠(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 神奈川県横須賀市稲岡町
- アクセス
- 京急「横須賀中央」駅から徒歩
- 見どころ
- 日本で唯一の記念艦。横須賀でつくる技術が育てた海軍の歴史
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
📝 数字に強い記録魔
几帳面で、お金や数字にとても強い人でした。
🗣️ ズバズバ直言
上司にも遠慮なく意見し、辞表を何度も出したと伝わります(それでも呼びもどされました)。
⚔️ 勝海舟とライバル
考えは対立したけれど、たがいに実力を認め合っていました。
🔩 新しい技術が大好き
アメリカから記念に小さなネジを持ち帰ったほど。
大河ドラマは、その年の“主役”に特別な意味のある人物をえらびます。知名度の低い小栗さんが2027年の主役にえらばれたのには、こんなわけがあります。
① 負けた側から幕末を見る新しさ
これまでの幕末のドラマは、坂本龍馬や西郷隆盛など「新しい世をつくった勝った側」が主役でした。「逆賊の幕臣」は、反対に、負けていく幕府の側から幕末を描く、めずらしい物語です。
② 2027年は生誕200年
小栗さんが生まれたのは1827年。そのちょうど200年後が2027年で、その人生をふり返るのにぴったりの節目の年です。
③ “かくれた立役者”の再評価
明治政府に「逆賊」とされた小栗さんは、長いあいだ歴史のかげにかくれ、教科書からも消えていました。でも研究が進み、「日本の近代化を先に用意していた人」として見直されるようになりました。
④ 地元もいっしょにもり上がる
小栗さんが最期をむかえた群馬県高崎市には、大河に合わせて記念館がつくられる予定です。造船所のある横須賀市も、大河ドラマ館をよぶことを考えています。
「勝った人の物語」ではなく、
「負けても日本の未来をつくった人」の物語。
小栗さんがまいた“近代のタネ”は、今の日本にもつながっています。代表的なものを四つ見てみましょう。
🛠️ 横須賀の造船所
日本の造船づくりと海軍の母体になりました。幕末のドックは今も現役。のちの海戦の勝利にもつながりました。
🏢 日本初の株式会社
「兵庫商社」をつくり、みんなでお金を出し合う“会社”のしくみを日本にもちこみました。今の会社の先がけです。
🏭 工場と技術の学校
外国の大きな機械や技術を取り入れ、日本人の技術者が育つ土台をつくりました。
⚙️ フランスと組んだ改革
軍隊のしくみや製鉄などを、フランスの力を借りて近代化しようとしました。
明治の政治家・大隈重信は、
「明治の近代化の多くは小栗のまねだった」と語りました。
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
- 1827年 江戸・神田駿河台の名門旗本の家に生まれる
- 1860年 遣米使節の目付としてアメリカへ。太平洋〜パナマ〜ワシントン〜ニューヨークをめぐる
- 帰国後 外国奉行・勘定奉行などをつとめ、幕府の立て直しに力をつくす
- 1865年 フランスの協力で横須賀製鉄所(造船所)を起工
- 1866年 日本初の株式会社といわれる「兵庫商社」を設立
- 1868年 新政府軍にとらえられ、罪のないまま斬首される(数え42歳)
- のちの世で 海軍の英雄・東郷平八郎が遺族に礼。大隈重信は「明治の近代化の多くは小栗のまね」と語った
たとえ幕府がたおれても、造船所は日本にのこる。土蔵付きの家を、次の人に売るようなものだ。
横須賀造船所づくりを、小栗はこうたとえたと伝わります。自分や幕府の手がらではなく、「日本の未来」のために働いていたのです。実際、その造船所は明治の日本を支えました。
忠順って、どんな人?
名門旗本の子から、日本の近代化をつくった幕臣へ。小栗忠順は、自分の代では完成を見られなくても、「国のために残す」と信じて種をまき続けた人でした。「逆賊」と呼ばれた幕臣の、もう一つの幕末の物語。続きは、2027年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」(主演・松坂桃李)でその目で確かめてみてください。
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