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大河ドラマ「豊臣とよとみ兄弟きょうだい!」連動シリーズ

豊臣秀長 出世絵巻

農家のうかの子から、天下てんかを支えささえる大大納言だいだいなごんへ。兄あに・秀吉ひでよしをいちばん近くちかくで支えささえた弟おとうと・秀長ひでながの一生いっしょうを、絵巻物えまきもののように九つここのつの場面ばめんでたどります。各かく場面ばめんに「行ってみよう」スポット付き。地図のマスをタップすると、その場面ばめんへジャンプします。

漢字かんじが読よみにくいときはオンのまま。慣なれたらオフにできます。
〔想像図〕豊臣秀長(とよとみ ひでなが)
スクールコンパス編集部オリジナル・イラスト(実際の肖像ではありません)
人物ファイル
よびな
豊臣秀長(とよとみ ひでなが)。幼名は小竹(こちく)、通称は小一郎(こいちろう)
生まれ〜なくなる
1540年〜1591年(数えで52歳)
生まれた場所
尾張国中村(今の愛知県名古屋市中村区)
家族
兄は天下人・豊臣秀吉。母は大政所(なか)。もとは百姓の家
役目・位
従二位・権大納言。大和など約100万石を治め「大和大納言」とよばれた
ひとことで言うと
天下人・秀吉を陰で支えた、豊臣家いちばんの“支え役”

▼ 秀長ひでながの出世しゅっせのものさし(タップで各かく場面ばめんへ)

場面ばめん一生まれるうまれる 1540年ねん(天文9年ねん)
尾張おわり・中村なかむら
イラスト:イメージ(公開版は同タッチの描き起こしを使用)。

なにがあったの?

1540年ねん、尾張おわり国くにの中村なかむら(今いまの名古屋市なごやし中村なかむら区)の農家のうかに生まれました。3つ年上としうえの兄あに・藤吉郎とうきちろう(のちの秀吉ひでよし)と、この小さな村むらで育ちます。

今でいうと、どんな子?

名字みょうじも持たない、ふつうの村むらの子。まだ「何者でもない」ところからのスタートでした。

だから、すごい!

のちに天下てんかを支えささえる人も、はじまりは小さな村むらの子。
ここから日本一にほんいちの「出世しゅっせ物語ものがたり」が動き出しうごきだします。

📍 行ってみよう:中村公園なかむらこうえん・豊国神社とよくにじんじゃ(名古屋市なごやし中村なかむら区)体験コンパス
実写真:中村公園なかむらこうえん・豊国神社とよくにじんじゃ
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
住 所
名古屋市なごやし中村なかむら区中村なかむら町まち高畑68
アクセス
地下鉄ちかてつ東山やま線「中村公園なかむらこうえん」駅えきから徒歩とほ約やく10分
見どころみどころ
豊国神社とよくにじんじゃ、秀吉ひでよし清正記念館、ひょうたん池
今いまだけ! 園内に大河ドラマ館「豊臣とよとみミュージアム」がオープン。兄弟きょうだいの生まれた町まちでドラマの世界せかいに出会えます。

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

場面ばめん二武士ぶしになる ── 兄あにに呼ばれて 1550〜60年ねん代
尾張おわり・美濃みの
イラスト:イメージ。城しろは清洲城きよすじょうをモデルにした想像図そうぞうずです。

なにがあったの?

兄あに・秀吉ひでよし(藤吉郎とうきちろう)は、ひと足先さきに村むらを出て、尾張おわりの大名だいみょう・織田信長おだのぶながに仕えつかえました。草履取りぞうりとりや、こわれた清洲城きよすじょうの塀へいをすばやく直すなおす仕事しごとなどで信頼しんらいをつかみ、ぐんぐん出世しゅっせしていきます。

秀長は、なにをした?

やがて兄あには、故郷ふるさとで農業のうぎょうをしていた弟おとうと・小一郎こいちろう(のちの秀長ひでなが)を呼び寄せ、信長のぶながに仕えつかえさせました。秀長ひでながは信長のぶながから名前なまえの一字いちじ「長」をもらい、「小一郎こいちろう長秀ながひで」と名のります。そして家臣かしんのまとめ役やくや、兄あにの代わりかわりの留守番るすばん役やくとして働きはたらきはじめました。(いつのことかは、記録きろくにはっきり残っのこっていません。)

今でいうと、どんな場面?

先さきに就職しゅうしょくして活躍する兄あにが、弟おとうとを「いっしょに働こう」とさそった、というイメージです。

だから、すごい!

農家のうかの子が「武士ぶし」になった瞬間。
ここから、兄弟きょうだいの二人三脚ににんさんきゃくがはじまります。

📍 行ってみよう:清洲城きよすじょう(愛知県清須市きよすし)体験コンパス
実写真:清洲城きよすじょう
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
所在地しょざいち
愛知県清須市きよすし
アクセス
JR「清洲きよす」駅えき・名鉄めいてつ「新清洲しんきよす」駅えきから徒歩とほ
見どころみどころ
信長のぶながの本拠だった城しろ。中村公園なかむらこうえんからも近くちかく、兄弟きょうだいの物語ものがたりが動き出しうごきだした場所ばしょ

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

場面ばめん三兄あにと歩み出すあゆみだす 1573年ねんごろ(天正元年ねん)
近江おうみ・長浜ながはま
イラスト:イメージ。湖は琵琶湖びわこ、城しろは長浜城ながはまじょうをモデルにした想像図そうぞうずです。

なにがあったの?

兄あにがはじめて自分の城しろ・長浜城ながはまじょう(滋賀県しがけん)を持ちました。秀長ひでなが(小一郎こいちろう)は、その城しろの留守るすをあずかる役やく(城代じょうだい)をつとめます。

秀長は、なにをした?

兄あにが戦に出ているあいだ、城しろと城下町じょうかまちを守りまもり、兵糧ひょうろう(食料)や武器ぶきを前線ぜんせんへ送り、町まちのもめごとを裁さばきました。

今でいうと、どんな仕事?

社長(兄あに)の留守るすをあずかる、本社のまとめ役やく・総務部長。

だから、すごい!

兄あにが安心して外で戦えたのは、弟おとうとが「家」を完ぺきに守ったから。
勝利しょうりは、見えない後方の働きはたらきから生まれます。

📍 行ってみよう:長浜城ながはまじょう(滋賀県しがけん長浜ながはま市)体験コンパス
実写真:長浜城ながはまじょう・豊公園ほうこうえん
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
住 所
滋賀県しがけん長浜ながはま市公園こうえん町まち(豊公園こうえん内)
アクセス
JR「長浜ながはま」駅えきから徒歩とほ約やく7分
見どころみどころ
琵琶湖びわこが一望いちぼうできる天守てんしゅ(歴史れきし博物館はくぶつかん)。今いまの天守てんしゅは1983年ねんの再建さいけん

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

場面ばめん四但馬たじまを平定しへいていし、天空てんくうの城しろを任されるまかされる 1580年ねん(天正8年ねん)
但馬たじま・竹田たけだ
イラスト:イメージ。雲海うんかいに浮かぶうかぶ竹田城たけだじょうをモデルにした想像図そうぞうずです。

なにがあったの?

兄あにの中国攻ちゅうごくぜめにしたがい、但馬たじま(兵庫県ひょうごけん北部ほくぶ)を平定へいてい。雲海うんかいに浮かぶうかぶ「天空てんくうの城しろ」竹田城たけだじょうを任されました(城代じょうだい)。

秀長は、なにをした?

山やまの上の大事だいじな城しろをあずかり、戦うたたかうだけでなく、道を整えととのえ、地域ちいきをおさめる実務じつむもこなしました。

今でいうと、どんな仕事?

はじめて任された支社長。現場をまるごとまかされる立場たちばに成長せいちょうしました。

だから、すごい!

「戦うたたかう力」だけでなく「治めおさめる力」が認めみとめられはじめた場面ばめん。
のちの大大名だいみょうへ、ここが第一歩でした。

📍 行ってみよう:竹田城跡たけだじょうあと(兵庫県ひょうごけん朝来市あさごし)体験コンパス
実写真:天空てんくうの城しろ・竹田城跡たけだじょうあと
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
住 所
兵庫県ひょうごけん朝来市あさごし和田山やま町まち竹田たけだ古城しろ山やま169
アクセス
JR「竹田たけだ」駅えきから徒歩とほ・バスなど
入城料にゅうじょうりょう
大人おとな(高校生こうこうせい以上いじょう)500円 ※雲海うんかいは秋あきの冷えた早朝そうちょうがねらい目

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

場面ばめん五本能寺ほんのうじの変へん、そして天王山てんのうざん 1582年ねん(天正10年ねん)
京都きょうと・山崎やまざき
天 王 山
イラスト:イメージ。天王山てんのうざんと羽柴はしば軍ぐんの旗(千成瓢箪せんなりびょうたん)をもとにした想像図そうぞうずです。

なにがあったの?

1582年ねん、兄弟きょうだいの主君しゅくんだった織田信長おだのぶながが、家臣かしんの明智光秀あけちみつひでにおそわれて亡くなりなくなりました(本能寺ほんのうじの変へん)。知らせしらせを聞いきいた兄あに・秀吉ひでよしは、中国ちゅうごく地方ちほうからものすごい速さはやさで引き返しひきかえし(中国大返ちゅうごくおおがえし)、山崎やまざきの戦いたたかいで光秀みつひでを破りやぶります。

秀長は、なにをした?

秀長ひでながは兄あにの右みぎうでとして、この大ピンチをともに乗りこえのりこえました。ここから兄弟きょうだいは、一気に天下取りてんかとりの表舞台おもてぶたいへ進みます。

今でいうと、どんな場面?

会社かいしゃが大混乱こんらんにおちいった瞬間に、誰より早く動いて立て直しなおしたチーム。秀長ひでながは兄あにを支えささえる参謀さんぼうでした。

だから、すごい!

ピンチのときこそ、すばやさと支えささえ合い。
ここから「豊臣とよとみ兄弟きょうだい」の時代じだいが、本当に動きうごきはじめます。

📍 行ってみよう:天王山てんのうざん(京都府きょうとふ大山崎町おおやまざきちょう)体験コンパス
実写真:天王山てんのうざん・旗立松はたたてまつ展望台てんぼうだいからの眺めながめ
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
所在地しょざいち
京都府きょうとふ乙訓郡大山崎町おおやまざきちょう
アクセス
JR「山崎やまざき」駅えき・阪急「大山崎やまざき」駅えきから登山口とざんぐちへ(山頂さんちょうまで約やく1時間)
見どころみどころ
旗立松はたたてまつ展望台てんぼうだい、山頂さんちょうの山崎やまざき城跡じょうあと、合戦の地を見わたすみわたす眺めながめ

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

場面ばめん六賤ヶ岳しずがたけで、兄あにを勝たせるかたせる 1583年ねん(天正11年ねん)
近江おうみ・賤ヶ岳しずがたけ
イラスト:イメージ。賤ヶ岳しずがたけ・余呉湖よごこの合戦の様子をもとにした想像図そうぞうずです。

なにがあったの?

兄あにが柴田勝家しばたかついえと天下てんかを争っあらそった「賤ヶ岳しずがたけの戦いたたかい」。秀長ひでながは兄あにの軍ぐんとして、本隊ほんたいの守りまもりを固めかためました。

秀長は、なにをした?

兄あにが遠くから一気に駆け戻る(美濃大返みのおおがえし)まで、最前線ぜんせんの守りまもりを崩さず持ちこたえました。

今でいうと、どんな役わり?

チームの守りまもりの司令塔。点を取られず、エースが戻るまで耐えぬきました。

だから、すごい!

派手な「一番槍やり」ではなく、崩れくずれないこと。
その地味じみな働きはたらきが、兄あにの勝利しょうり=天下取りてんかとりの一歩を決めきめました。

📍 行ってみよう:賤ヶ岳しずがたけ古戦場こせんじょう(滋賀県しがけん長浜ながはま市)体験コンパス
実写真:賤ヶ岳しずがたけから見る余呉湖よごこ・琵琶湖びわこ
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
所在地しょざいち
滋賀県しがけん長浜ながはま市
アクセス
JR「木ノ本」駅えきからバス+賤ヶ岳しずがたけリフト約やく6分で山頂さんちょうへ
見どころみどころ
山頂さんちょうから余呉湖よごこ・琵琶湖びわこ・竹生島ちくぶしまの大パノラマ ※リフトは春〜初冬ごろ運行

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

場面ばめん七紀伊きいを治めおさめ、和歌山城わかやまじょうをつくる 1585年ねん(天正13年ねん)
紀伊きい・和歌山わかやま
イラスト:イメージ。紀ノ川きのかわと和歌山城わかやまじょうをモデルにした想像図そうぞうずです。

なにがあったの?

同じおなじころ、紀伊きい(和歌山わかやま県)も任され、紀ノ川きのかわのほとりに新しいあたらしい城しろ・和歌山城わかやまじょうをつくらせました。

秀長は、なにをした?

家臣かしんの藤堂高虎とうどうたかとららに城しろを築かきずかせ、わずか1年ねんほどで完成かんせいさせました。

今でいうと、どんな仕事?

新しいあたらしい拠点きょてんをゼロから立ち上げる開発リーダー。任された土地とちに、自分で「町まちの中なか心」をつくります。

だから、すごい!

守るまもるだけでなく、新しいあたらしい城しろと町まちを生み出すうみだす力。
この城しろは今いまも、和歌山わかやまのシンボルとして残っのこっています。

📍 行ってみよう:和歌山城わかやまじょう(和歌山市わかやまし)体験コンパス
実写真:和歌山城わかやまじょうの天守てんしゅ
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
住 所
和歌山わかやま県和歌山市わかやまし一番丁
アクセス
南海「和歌山市わかやまし」駅えきから徒歩とほ約やく10分
見どころみどころ
大天守てんしゅと小天守てんしゅを櫓やぐらでつなぐ「連立式れんりつしき天守てんしゅ」。公園こうえん・動物園どうぶつえんも

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

場面ばめん八城しろを任されるまかされる 1585年ねん(天正13年ねん)
秀長ひでなが 46歳ごろ・大和郡山やまとこおりやま
百万石
イラスト:イメージ(公開版は同タッチの描き起こし)。城しろは大和郡山城やまとこおりやまじょうをモデルにした想像図そうぞうずです。

なにがあったの?

四国くにを平定しへいていした手がらてがらで、兄あにから大和やまと・紀伊きい・和泉いずみの三つみっつの国くに=あわせて約やく100万石まんごくを任され、大和郡山城やまとこおりやまじょうの城主じょうしゅになりました。官位かんいは大納言だいなごん。「大和大納言やまとだいなごん」と呼ばれます。

秀長は、なにをした?

もとの城しろを100万石まんごくにふさわしい大きな城しろへ作りかえ、商人しょうにんを呼んで城下町じょうかまちもにぎやかに整えととのえました。

今でいうと、どんな仕事?

まちづくりの総責任者そうせきにんしゃであり、広い土地とちと人をまとめる県知事けんちじのようなリーダー。

だから、すごい!

いちばん難しくむずかしくて、いちばん大事だいじな場所ばしょを任された。
それは、兄あにがもっとも信頼しんらいした「右みぎうで」だったしるしです。

💡 100万石まんごくって、どれくらいすごい?
100万人まんにん
を1年ねんやしなえる
お米こめがとれる!
「1石こく」は、大人おとなひとりが1年ねんに食べるたべるお米こめの量りょう(約やく150kg)。だから100万石まんごくは、100万人まんにんぶんのお米こめがとれる土地とちなのです。
🏯 当時とうじトップクラス。のちに「日本一にほんいちの大名だいみょう」とよばれる“加賀百万石かがひゃくまんごく”と同じおなじ規模きぼ。天下人てんかびとになった兄あに・秀吉ひでよしの、すぐ下したの大きさです。
⚔️ 力にすると。それだけのお米こめがあれば、計算けいさんでは2万人まんにんをこえる家来けらいや兵へいをやしなえました。
📍 行ってみよう:大和郡山城跡やまとこおりやまじょうあと(奈良県ならけん大和郡山市やまとこおりやまし)体験コンパス
実写真:大和郡山城やまとこおりやまじょう 天守てんしゅ台・石垣いしがき
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
住 所
奈良県ならけん大和郡山市やまとこおりやまし城しろ内町まち
アクセス
近鉄きんてつ「近鉄きんてつ郡山こおりやま」駅えきから徒歩とほ約やく7分
見どころみどころ
天守てんしゅ台展望施設、さかさ地蔵じぞう、桜さくら(日本さくら名所めいしょ100選)
今いまだけ! 城跡じょうあとのすぐそばに大河ドラマ「豊臣とよとみ兄弟きょうだい!」の大河ドラマ館がオープン。

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

場面ばめん九天下てんかの調整役ちょうせいやくになる 1580年ねん代後半
大和やまと・全国くに
イラスト:イメージ。性格せいかくの違う大名だいみょうたちの間をつなぐ秀長ひでながを表しています。

なにがあったの?

政権せいけんのナンバー2として、性格せいかくのちがう大名だいみょうたちの間を取りもつとりもつ「調整役ちょうせいやく・まとめ役やく」になりました。九州きゅうしゅうを平定へいていする戦いたたかいでは総大将そうたいしょうもつとめています。

秀長は、なにをした?

強気で敵を作りがちな兄あにに対し、温厚おんこうな秀長ひでながは多くの人に慕わしたわれ、もめごとをおさめました。大事だいじな山城やまじろ・高取城たかとりじょうは、信頼しんらいする家臣かしんに守らまもらせました。

今でいうと、どんな仕事?

会社かいしゃ全体の調整役ちょうせいやく・相談役やく。みんなが「あの人に頼めば大丈夫」と思える存在です。

だから、すごい!

戦の強さつよさだけでなく「人と人をつなぐ力」で政権せいけんを支えささえた。
これこそ、秀長ひでながが「ナンバー2の名人めいじん」と呼ばれる理由です。

📍 行ってみよう:高取城跡たかとりじょうあと(奈良県ならけん高取町たかとりちょう)体験コンパス
実写真:高取城跡たかとりじょうあとの高石垣いしがき
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
所在地しょざいち
奈良県ならけん高市郡高取町たかとりちょう
アクセス
近鉄きんてつ「壺阪山やま」駅えきから登山やま道など
見どころみどころ
日本三大山城さんだいやまじろのひとつ。山やまの上に広がる豪快な石垣いしがき

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

場面ばめん十最期さいご、そして今いまも慕わしたわれる 1591年ねん(天正19年ねん)
大和郡山やまとこおりやま・52歳
イラスト:イメージ。秀長ひでながの墓はか・大納言塚だいなごんづかをモデルにした想像図そうぞうずです。

なにがあったの?

兄あにの天下統一てんかとういつを目前もくぜんにした1591年ねん、秀長ひでながは病やまいのため、52歳で亡くなりなくなりました。

そのあと、どうなった?

最後まで兄あにと天下てんかを支えささえた秀長ひでなが。その「調整役ちょうせいやく」を失ったあと、豊臣とよとみの政権せいけんはだんだんと揺れていきます。

だから、わすれられない!

「秀長ひでながが長生きしていれば、豊臣とよとみの天下てんかは安泰あんたいだった」。
そう言われるほど、欠かせない人でした。

📍 行ってみよう:大納言塚だいなごんづか(奈良県ならけん大和郡山市やまとこおりやまし)体験コンパス
実写真:大納言塚だいなごんづか(秀長ひでながの墓はか)
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
所在地しょざいち
奈良県ならけん大和郡山市やまとこおりやまし
アクセス
近鉄きんてつ「近鉄きんてつ郡山こおりやま」駅えきから徒歩とほ約やく10分
見どころみどころ
秀長ひでながをまつる五輪塔と「お願いの砂」

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

その後そのご豊臣家とよとみけのゆくえ 1591〜1615年ねん
秀長ひでながの死後しご

秀長ひでながが亡くなったあと、豊臣家とよとみけはどうなったのでしょう。ここは絵巻えまきの「むすびの物語ものがたり」。出世しゅっせのものさしには乗らない、秀長ひでながのいない時代じだいのお話です。

  1. 1591年ねん 秀長ひでなが、亡くなるなくなる ── 豊臣家とよとみけは、もめごとをまとめる「調整役ちょうせいやく」を失いうしないます。
  2. 1595年ねん おい(秀次ひでつぐ)が命を落とし、家の中なかが乱れみだれます。
  3. 1598年ねん 兄あに・秀吉ひでよしが亡くなりなくなります ── あとつぎの秀頼ひでよりは、まだ幼いおさない子どもでした。
  4. 1600年ねん 関ヶ原せきがはらの戦いたたかい ── 徳川家康とくがわいえやすが勝ちかちます。
  5. 1603年ねん 家康いえやすが江戸えど幕府ばくふをひらきます。
  6. 1614〜1615年ねん 大坂おおさかの陣じん ── 大坂城おおさかじょうが落ちおち、豊臣家とよとみけはほろびました。
だから、語りかたりつがれる

もし秀長ひでながが長生きして、調整役ちょうせいやくとして家をまとめ続けていたら……結末けつまつは変わっかわっていたかもしれません。
「秀長ひでなががいれば」と今いまも語らかたられるのは、そのためです。

📍 行ってみよう:大阪城おおさかじょう(大阪市おおさかし中央区ちゅうおうく)体験コンパス
実写真:大阪城おおさかじょうの天守てんしゅ
(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
所在地しょざいち
大阪府おおさかふ大阪市おおさかし中央区ちゅうおうく大阪城おおさかじょう
アクセス
JR・地下鉄ちかてつ「大阪城おおさかじょう公園こうえん」駅えきなどから徒歩とほ
見どころみどころ
天守閣てんしゅかく(歴史れきし展示)、巨大きょだいな石垣いしがきとお堀ほり

出典:公式サイト・各かく種情報源を参照。

年表一生をひと目で
  1. 1540年 尾張の村に生まれる(幼名・小竹)。22歳ごろまで田畑をたがやす百姓だった
  2. 1561年ごろ 家出していた兄・秀吉が村に戻り、その家来になって武士の道へ
  3. 1573年ごろ 兄が長浜城主に。城代などをつとめ、内政の力を認められる
  4. 1585年 四国攻めで兄の名代をつとめる。大和など約100万石を得て郡山城主に。「大和大納言」に
  5. 1587年 九州攻めで先手大将。島津氏の降伏交渉にあたる
  6. このころ 郡山の城下町を整え、奈良の商業を保護。検地や寺社の調整も。焼き物「赤膚焼」も始めたと伝わる
  7. 1591年 大和郡山城で病死(数え52歳)。豊臣家は大きな“支え役”を失った
ことば心にのこる、この人のことば
名言:「内々のことは利休に、公のことは秀長に」

内々の儀は宗易(=千利休)、公儀の事は宰相(=秀長)にご相談を。

兄・秀吉が、たずねてきた大名にこう言ったと伝わります。表向きの政治は秀長に、という意味で、秀長が豊臣政権の“かなめ”だった証拠です。だからこそ、多くの大名は秀長にとりなしをたのみました。

秀長って、どんな人?

農家のうかの子から、天下てんかを支えささえる大大納言だいだいなごんへ。秀長ひでながは「いちばん前に立つ人」ではなく、「いないと回らない人」でした。留守るすを守りまもり、城しろをつくり、人と人をつなぐ。目立たないけれど欠かせない――そんな“ナンバー2の名人めいじん”の一生いっしょうでした。続きは、大河ドラマ「豊臣とよとみ兄弟きょうだい!」でその目で確かめてみてください。

▶ ゆかりの地を、いつか旅たびして回ってみよう
研究この人で「自由じゆう研究けんきゅう」:3ステップ
  1. 1兄あに・秀吉ひでよしのために「何なにをしたか」を年表ねんぴょうから三みっつ書き出す。
  2. 2ゆかりの地(大和郡山城やまとこおりやまじょうなど)を地図ちずにして、行けたら写真しゃしんをとる。
  3. 3「支ささえる人(ナンバー2)」は今いまのどんな仕事しごとに似にている?を自分じぶんのことばで書く。
▶ もっとくわしい進すすめ方かたを見る

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❓ よくある質問

Q. 豊臣秀長はどんな人柄でしたか?

A. 兄の秀吉とは対照的に温厚で寛大な性格とされ、諸大名と秀吉の間をとりもつ調整役として信頼されました。多くの大名が秀吉へのとりなしを秀長にたのんだと伝わります。

Q. なぜ豊臣秀長が亡くなると豊臣家はかたむいたのですか?

A. 秀長は兄・秀吉に意見できる数少ない人物で、家臣や大名の不満を吸収する政権の『かなめ』でした。1591年に亡くなると調整役を失い、千利休の死や秀次事件、朝鮮出兵など政権が不安定になっていったと評価されています。

Q. 豊臣秀長の大河ドラマは?

A. 2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公です。主演は仲野太賀さん、脚本は八津弘幸さんで、兄・秀吉とともに成り上がる秀長の生涯を描きます。

Q. 豊臣秀長の出身や幼名は?

A. 尾張国中村(今の愛知県名古屋市中村区)の農民の家に生まれ、幼名は小竹(こちく)、通称は小一郎でした。兄・秀吉の出世に合わせて木下・羽柴・豊臣と名字を変えていきました。

Q. 豊臣秀長はどんな政治(内政)をしましたか?

A. 大和郡山を拠点に検地を行い、強かった寺社勢力の力をおさえ、奈良の商業を郡山に集めて城下町をにぎわせました。焼き物の赤膚焼を始めたとも伝わります。

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