大河ドラマ「豊臣兄弟!」連動シリーズ
豊臣秀長 出世絵巻
農家の子から、天下を支える大大納言へ。兄・秀吉をいちばん近くで支えた弟・秀長の一生を、絵巻物のように九つの場面でたどります。各場面に「行ってみよう」スポット付き。地図のマスをタップすると、その場面へジャンプします。
スクールコンパス編集部オリジナル・イラスト(実際の肖像ではありません)
▼ 秀長の出世のものさし(タップで各場面へ)
尾張・中村
なにがあったの?
1540年、尾張国の中村(今の名古屋市中村区)の農家に生まれました。3つ年上の兄・藤吉郎(のちの秀吉)と、この小さな村で育ちます。
今でいうと、どんな子?
名字も持たない、ふつうの村の子。まだ「何者でもない」ところからのスタートでした。
のちに天下を支える人も、はじまりは小さな村の子。
ここから日本一の「出世物語」が動き出します。
写真:Googleマップ実写真:中村公園・豊国神社(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 住 所
- 名古屋市中村区中村町高畑68
- アクセス
- 地下鉄東山線「中村公園」駅から徒歩約10分
- 見どころ
- 豊国神社、秀吉清正記念館、ひょうたん池
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
尾張・美濃
なにがあったの?
兄・秀吉(藤吉郎)は、ひと足先に村を出て、尾張の大名・織田信長に仕えました。草履取りや、こわれた清洲城の塀をすばやく直す仕事などで信頼をつかみ、ぐんぐん出世していきます。
秀長は、なにをした?
やがて兄は、故郷で農業をしていた弟・小一郎(のちの秀長)を呼び寄せ、信長に仕えさせました。秀長は信長から名前の一字「長」をもらい、「小一郎長秀」と名のります。そして家臣のまとめ役や、兄の代わりの留守番役として働きはじめました。(いつのことかは、記録にはっきり残っていません。)
今でいうと、どんな場面?
先に就職して活躍する兄が、弟を「いっしょに働こう」とさそった、というイメージです。
農家の子が「武士」になった瞬間。
ここから、兄弟の二人三脚がはじまります。
写真:Googleマップ実写真:清洲城(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 愛知県清須市
- アクセス
- JR「清洲」駅・名鉄「新清洲」駅から徒歩
- 見どころ
- 信長の本拠だった城。中村公園からも近く、兄弟の物語が動き出した場所
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
近江・長浜
なにがあったの?
兄がはじめて自分の城・長浜城(滋賀県)を持ちました。秀長(小一郎)は、その城の留守をあずかる役(城代)をつとめます。
秀長は、なにをした?
兄が戦に出ているあいだ、城と城下町を守り、兵糧(食料)や武器を前線へ送り、町のもめごとを裁きました。
今でいうと、どんな仕事?
社長(兄)の留守をあずかる、本社のまとめ役・総務部長。
兄が安心して外で戦えたのは、弟が「家」を完ぺきに守ったから。
勝利は、見えない後方の働きから生まれます。
写真:Googleマップ実写真:長浜城・豊公園(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 住 所
- 滋賀県長浜市公園町(豊公園内)
- アクセス
- JR「長浜」駅から徒歩約7分
- 見どころ
- 琵琶湖が一望できる天守(歴史博物館)。今の天守は1983年の再建
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
但馬・竹田
なにがあったの?
兄の中国攻めにしたがい、但馬(兵庫県北部)を平定。雲海に浮かぶ「天空の城」竹田城を任されました(城代)。
秀長は、なにをした?
山の上の大事な城をあずかり、戦うだけでなく、道を整え、地域をおさめる実務もこなしました。
今でいうと、どんな仕事?
はじめて任された支社長。現場をまるごとまかされる立場に成長しました。
「戦う力」だけでなく「治める力」が認められはじめた場面。
のちの大大名へ、ここが第一歩でした。
写真:Googleマップ実写真:天空の城・竹田城跡(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 住 所
- 兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169
- アクセス
- JR「竹田」駅から徒歩・バスなど
- 入城料
- 大人(高校生以上)500円 ※雲海は秋の冷えた早朝がねらい目
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
京都・山崎
なにがあったの?
1582年、兄弟の主君だった織田信長が、家臣の明智光秀におそわれて亡くなりました(本能寺の変)。知らせを聞いた兄・秀吉は、中国地方からものすごい速さで引き返し(中国大返し)、山崎の戦いで光秀を破ります。
秀長は、なにをした?
秀長は兄の右うでとして、この大ピンチをともに乗りこえました。ここから兄弟は、一気に天下取りの表舞台へ進みます。
今でいうと、どんな場面?
会社が大混乱におちいった瞬間に、誰より早く動いて立て直したチーム。秀長は兄を支える参謀でした。
ピンチのときこそ、すばやさと支え合い。
ここから「豊臣兄弟」の時代が、本当に動きはじめます。
写真:Googleマップ実写真:天王山・旗立松展望台からの眺め(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 京都府乙訓郡大山崎町
- アクセス
- JR「山崎」駅・阪急「大山崎」駅から登山口へ(山頂まで約1時間)
- 見どころ
- 旗立松展望台、山頂の山崎城跡、合戦の地を見わたす眺め
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
近江・賤ヶ岳
なにがあったの?
兄が柴田勝家と天下を争った「賤ヶ岳の戦い」。秀長は兄の軍として、本隊の守りを固めました。
秀長は、なにをした?
兄が遠くから一気に駆け戻る(美濃大返し)まで、最前線の守りを崩さず持ちこたえました。
今でいうと、どんな役わり?
チームの守りの司令塔。点を取られず、エースが戻るまで耐えぬきました。
派手な「一番槍」ではなく、崩れないこと。
その地味な働きが、兄の勝利=天下取りの一歩を決めました。
写真:Googleマップ実写真:賤ヶ岳から見る余呉湖・琵琶湖(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 滋賀県長浜市
- アクセス
- JR「木ノ本」駅からバス+賤ヶ岳リフト約6分で山頂へ
- 見どころ
- 山頂から余呉湖・琵琶湖・竹生島の大パノラマ ※リフトは春〜初冬ごろ運行
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
紀伊・和歌山
なにがあったの?
同じころ、紀伊(和歌山県)も任され、紀ノ川のほとりに新しい城・和歌山城をつくらせました。
秀長は、なにをした?
家臣の藤堂高虎らに城を築かせ、わずか1年ほどで完成させました。
今でいうと、どんな仕事?
新しい拠点をゼロから立ち上げる開発リーダー。任された土地に、自分で「町の中心」をつくります。
守るだけでなく、新しい城と町を生み出す力。
この城は今も、和歌山のシンボルとして残っています。
写真:Googleマップ実写真:和歌山城の天守(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 住 所
- 和歌山県和歌山市一番丁
- アクセス
- 南海「和歌山市」駅から徒歩約10分
- 見どころ
- 大天守と小天守を櫓でつなぐ「連立式天守」。公園・動物園も
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
秀長 46歳ごろ・大和郡山
なにがあったの?
四国を平定した手がらで、兄から大和・紀伊・和泉の三つの国=あわせて約100万石を任され、大和郡山城の城主になりました。官位は大納言。「大和大納言」と呼ばれます。
秀長は、なにをした?
もとの城を100万石にふさわしい大きな城へ作りかえ、商人を呼んで城下町もにぎやかに整えました。
今でいうと、どんな仕事?
まちづくりの総責任者であり、広い土地と人をまとめる県知事のようなリーダー。
いちばん難しくて、いちばん大事な場所を任された。
それは、兄がもっとも信頼した「右うで」だったしるしです。
お米がとれる!
写真:Googleマップ実写真:大和郡山城 天守台・石垣(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 住 所
- 奈良県大和郡山市城内町
- アクセス
- 近鉄「近鉄郡山」駅から徒歩約7分
- 見どころ
- 天守台展望施設、さかさ地蔵、桜(日本さくら名所100選)
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
大和・全国
なにがあったの?
政権のナンバー2として、性格のちがう大名たちの間を取りもつ「調整役・まとめ役」になりました。九州を平定する戦いでは総大将もつとめています。
秀長は、なにをした?
強気で敵を作りがちな兄に対し、温厚な秀長は多くの人に慕われ、もめごとをおさめました。大事な山城・高取城は、信頼する家臣に守らせました。
今でいうと、どんな仕事?
会社全体の調整役・相談役。みんなが「あの人に頼めば大丈夫」と思える存在です。
戦の強さだけでなく「人と人をつなぐ力」で政権を支えた。
これこそ、秀長が「ナンバー2の名人」と呼ばれる理由です。
写真:Googleマップ実写真:高取城跡の高石垣(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 奈良県高市郡高取町
- アクセス
- 近鉄「壺阪山」駅から登山道など
- 見どころ
- 日本三大山城のひとつ。山の上に広がる豪快な石垣
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
大和郡山・52歳
なにがあったの?
兄の天下統一を目前にした1591年、秀長は病のため、52歳で亡くなりました。
そのあと、どうなった?
最後まで兄と天下を支えた秀長。その「調整役」を失ったあと、豊臣の政権はだんだんと揺れていきます。
「秀長が長生きしていれば、豊臣の天下は安泰だった」。
そう言われるほど、欠かせない人でした。
写真:Googleマップ実写真:大納言塚(秀長の墓)(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 奈良県大和郡山市
- アクセス
- 近鉄「近鉄郡山」駅から徒歩約10分
- 見どころ
- 秀長をまつる五輪塔と「お願いの砂」
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
秀長の死後
秀長が亡くなったあと、豊臣家はどうなったのでしょう。ここは絵巻の「むすびの物語」。出世のものさしには乗らない、秀長のいない時代のお話です。
- 1591年 秀長、亡くなる ── 豊臣家は、もめごとをまとめる「調整役」を失います。
- 1595年 おい(秀次)が切腹に追いこまれ、家の中が乱れます。
- 1598年 兄・秀吉が亡くなります ── あとつぎの秀頼は、まだ幼い子どもでした。
- 1600年 関ヶ原の戦い ── 徳川家康が勝ちます。
- 1603年 家康が江戸幕府をひらきます。
- 1614〜1615年 大坂の陣 ── 大坂城が落ち、豊臣家はほろびました。
もし秀長が長生きして、調整役として家をまとめ続けていたら……結末は変わっていたかもしれません。
「秀長がいれば」と今も語られるのは、そのためです。
写真:Googleマップ実写真:大阪城の天守(公開版はGoogleプレイス取得の実写真)
- 所在地
- 大阪府大阪市中央区大阪城
- アクセス
- JR・地下鉄「大阪城公園」駅などから徒歩
- 見どころ
- 天守閣(歴史展示)、巨大な石垣とお堀
出典:公式サイト・各種情報源を参照。
- 1540年 尾張の村に生まれる(幼名・小竹)。22歳ごろまで田畑をたがやす百姓だった
- 1561年ごろ 家出していた兄・秀吉が村に戻り、その家来になって武士の道へ
- 1573年ごろ 兄が長浜城主に。城代などをつとめ、内政の力を認められる
- 1585年 四国攻めで兄の名代をつとめる。大和など約100万石を得て郡山城主に。「大和大納言」に
- 1587年 九州攻めで先手大将。島津氏の降伏交渉にあたる
- このころ 郡山の城下町を整え、奈良の商業を保護。検地や寺社の調整も。焼き物「赤膚焼」も始めたと伝わる
- 1591年 大和郡山城で病死(数え52歳)。豊臣家は大きな“支え役”を失った
内々の儀は宗易(=千利休)、公儀の事は宰相(=秀長)にご相談を。
兄・秀吉が、たずねてきた大名にこう言ったと伝わります。表向きの政治は秀長に、という意味で、秀長が豊臣政権の“かなめ”だった証拠です。だからこそ、多くの大名は秀長にとりなしをたのみました。
秀長って、どんな人?
農家の子から、天下を支える大大納言へ。秀長は「いちばん前に立つ人」ではなく、「いないと回らない人」でした。留守を守り、城をつくり、人と人をつなぐ。目立たないけれど欠かせない――そんな“ナンバー2の名人”の一生でした。続きは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」でその目で確かめてみてください。
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